ドレスコーズ志磨遼平が独占告白、唯一無二の表現と制作の深淵
志磨 遼平という表現者が放つ異様なまでの気品と退廃美は、流行の変遷が激しいカルチャーシーンにおいて、依然として誰にも模倣できない光を放ち続けている。細身のスーツに身を包み、気だるげに煙草を燻らすような佇まいの奥底には、常に音楽と物語に対する冷徹なまでの批評眼が宿る。妥協なき美学。それは時代への迎合を拒みながらも、リスナーの胸元深くに鋭い切っ先を突き立てる刃だ。
メジャーとアンダーグラウンドの境界線を軽やかに飛び越え、フロントマンとして、文筆家として、あるいは俳優として存在感を刻む志磨 遼平の歩みは、そのまま平成から令和へと至るオルタナティブ・シーンの変遷史そのものと言っていい。単なるロックンロールの再生産にとどまらないその表現衝動は、今まさに新たなフェーズへと突入している。
独占インタビュー:2026年の最新動向と他では語られない音作りの秘密
薄暗いスタジオの片隅で腰を下ろした彼は、自らの近況について静かに語り始めた。2026年という現在地において、ドレスコーズが目指す音響の地平は、これまでのどの作品とも異なっている。「僕がずっとやってきたのは、記憶の捏造みたいなものかもしれません」と、志磨は笑う。最新の制作現場では、ビンテージのアナログ機材と最新鋭のプラグインを極端なバランスで混交させる実験が繰り返されているという。
「弦楽器の倍音一つをとっても、完璧なピッチではなく、ほんのわずかな揺らぎや軋みをそのまま残す。EVIL LINE RECORDSのチームとは、そういうノイズにこそ人間の感情が宿るという共通認識で制作を進めています。今回のレコーディングでは、マイクの距離感や部屋鳴りの空気そのものをひとつの楽器として捉え直しました。他所ではあまり話していませんが、実はボーカルトラックの一部は、iPhoneのボイスメモで深夜に録音したラフテイクの質感をそのままマスターにブレンドしているんです。あのざらついた質感が、ハイレゾのクリアな音像の中で異物として機能する」。
音楽の制作手法が極限まで効率化された現代において、志磨が試みる逆説的なアプローチは、単なる懐古趣味ではない。剥き出しの体温をデジタルデータの隙間にどう潜り込ませるかという、極めて現代的な挑戦なのだ。
毛皮のマリーズからドレスコーズへ――破滅と構築のクロニクル
志磨の足跡を辿る上で、避けて通れないのが毛皮のマリーズの存在だ。2011年、日本武道館での鮮烈な解散劇。絶頂期での自縛と解放。あの日、ロックバンドという共同体の物語に自ら終止符を打った彼が、間髪入れずに始動させたのがドレスコーズだった。
キングレコード在籍時の初期衝動から、バンドメンバーの脱退を経て「志磨遼平のソロプロジェクト」へと移行した過程は、表現者としての孤独を徹底的に引き受ける旅路でもあった。メンバーを固定せず、楽曲ごとに異なるミュージシャンを招き入れる流動的なスタイルは、当初こそ異端視されたものの、結果としてドレスコーズの音楽性を無限に拡張させる契機となった。
壊しては創る。その破壊と構築のダイナミズムこそが、彼の表現の本質だ。ひとつのフォーマットに安住することを極度に恐れるその姿勢が、常にスリリングな傑作を生み出し続ける原動力となっている。
グラムロックの血脈と邦楽ロックの枠組みを揺るがす美学
志磨の音楽的ルーツには、T・レックスやデヴィッド・ボウイといった1970年代のグラムロックの煌びやかさと毒気が色濃く流れている。しかし、それをそのまま模倣するのではなく、昭和歌謡の哀愁や文学的な詞世界と結びつけることで、独自の邦楽ロックへと昇華させてきた。
言葉の選び方ひとつをとっても、中原中也や寺山修司を想起させる抒情性と、ストリートの粗野なスラングが同居する。派手なメイクやグラマラスな衣装は、単なるギミックではない。日常のリアリティからリスナーを劇的な虚構の世界へと連れ去るための、周到に計算された舞台装置なのだ。様式美に縛られがちなロックシーンにおいて、その theatrical(演劇的)なアプローチは、今なお鮮烈な異彩を放っている。
銀幕に刻まれた影:映画『溺れるナイフ』から日本映画界での怪演まで
志磨の表現欲求は、音楽の枠組みをも軽々と飛び越える。山戸結希監督の映画『溺れるナイフ』で見せた強烈な存在感は、多くの映画ファンを驚かせた。台詞の抑揚や独特の身体性は、プロの俳優陣の中にあっても埋もれることなく、作品全体に奇妙な緊張感を与えていた。
さらに、映画『PARKS パークス』をはじめとする数々の日本映画への出演や劇伴制作を通じて、彼は映像空間における自身の「アイコン性」を客観的にコントロールする術を獲得していく。監督たちが志磨遼平という素材に惹かれる理由は明確だ。彼がフレームインするだけで、画面の空気が一変し、物語に奥行きと陰影が生まれるからである。音楽家が片手間で演じるのではない、真摯な表現者としての映画へのコミットメントがそこにある。
ストリーミング時代の孤独:SpotifyとNetflixが映し出す作家性
音楽の聴かれ方が劇的に変化した現代において、志磨の作品群はどのように届いているのか。Spotifyをはじめとする音楽ストリーミングサービスでは、アルバム単位のコンセプチュアルな鑑賞と、単曲でのプレイリスト消費という二極化が進む。その中で志磨は、一貫して「アルバムというフォーマットの美しさ」を信じながらも、サブスクリプション特有の即時性を逆手に取ったアプローチを展開している。
また、Netflixをはじめとする映像配信プラットフォームの隆盛により、彼が手掛けた劇中歌や映画音楽は、国境を越えて瞬時に世界各地へと届くようになった。深夜、ベッドルームでヘッドフォンを通して聴かれる彼の囁くような歌声は、孤独を抱える世界中のリスナーにとって、密やかなシェルターとして機能している。デジタルな利便性の中心にあって、志磨の描く物語はどこまでもパーソナルで、親密な響きを失わない。
終わりなき変容:時代のノイズを切り裂く表現者の到達点
ロックンロールは死んだのか、それとも形を変えて生き延びているのか――そんな不毛な問いを、志磨遼平の活動は軽やかに無力化する。彼にとってロックとはジャンルではなく、世界に対する態度であり、自らの美意識を貫き通すための作法に他ならない。
常に変化し続けることだけを己に課し、昨日の自分を躊躇なく裏切りながら前進する。その姿は痛々しくも美しい。他者の期待や時代のトレンドをあざ笑うかのように、志磨はこれからも自らの信じる美学の神殿を築き上げていくだろう。彼が次にどんな物語を紡ぎ、どんな音を鳴らすのか。その企みから、私たちは決して目を離すことができない。 (出典: 志磨 遼平(Yahoo!ニュース))